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2月の労働ガバナンス特集(前編) ― 2月の転職ラッシュに表れるガバナンスの兆し:コーポレート・ガバナンスによる従業員信頼の再構築と、持続可能な「幸福な企業」の実現 ―

1. 2月の転職ラッシュ――企業が本当に恐れるべきものとは何か

毎年2月になると、企業経営者から最もよく聞かれる言葉は
「年明けは人の気持ちが揺れ動き、社員を引き留められるか不安だ」というものです。

しかし、コーポレート・ガバナンスの観点から見ると、この現象は別の捉え方ができます。2月は「人材を引き留める月」ではなく、「制度の信頼性が試されるストレステストの時期」なのです。

社員が会社を離れる理由は、特定の福利厚生が不足しているからではありません。多くの場合、「ここで努力し続けた場合、将来に予測可能なリターンが得られるのか」という点に対する信頼を失ったことが原因です。

一度、社員が自社を「不確実性の高い環境」と認識すると、合理的な選択としてリスクを下げようとします。履歴書を更新し、外部の選択肢を比較し、まだ条件交渉が可能なうちに動き出す――これが自然な行動です。

そのため、賃上げや福利厚生の拡充を行っても、人心を安定させられない企業は少なくありません。問題は待遇ではなく、制度そのものが信頼に値するかどうかにあります。

※補足:2月の人材流動は突発的な現象ではなく、制度の不確実性が蓄積し、可視化された結果に過ぎません。
 
画像の出典:FREEPIK
 

2. 社員が会社に残る理由は「幸福感」ではなく「予測可能性」であることが多い

実務上の観察から言えるのは、社員が会社に残る理由は、必ずしも毎日が楽しいからではありません。むしろ、「将来がおおよそどう進むのか」を理解しており、かつ会社がルールどおりに運営されると信じられるかが重要なのです。

予測可能性は、主に次の4つの要素から生まれます。
  • 明確な人事制度(入社、試用期間、昇進、昇給、賞与、配置転換に関するルールが明示されている)
  • 理解可能な評価ロジック(どの行動が評価され、どの成果が測定されるのかが社員に共有されている)
  • 経営層が言行一致するガバナンス文化(約束が守られ、説明や方針が二転三転しない)
  • 例外的なケースにも一貫した対応基準があること(人や関係性、その場の感情によって左右されない)

多くの企業は「企業文化」と聞くと、社内イベントやスローガンを思い浮かべがちです。しかし、社員が文化を判断する基準はもっと直接的です。プレッシャーがかかったとき、ルールは変わるのか。約束は縮小されるのか。制度は突然書き換えられるのか。

社員が一度でも「ルールが急に変わり、その理由が十分に説明されない」場面を目にすると、信頼は確実に低下します。
そして、信頼が失われた後では、どれほど福利厚生を充実させても、それを取り戻すことは容易ではありません。

※補足:人材定着とは「多く与えること」ではなく、「ルールが変わないと社員が信じられる状態」をつくることです。
 

3. 企業で最も多く見られるガバナンスの機能不全:制度はあるが、予測できない

多くの企業は制度がないわけではない。問題は、その運用が従業員にとって理解できず、予測もできない点にある。
制度が「推測するしかない」状態になった時、それはもはや制度ではなく、リスクの源となる。

よく見られる三つの機能不全は以下のとおりである。
  • 評価基準が頻繁に変わる、あるいは上司ごとに判断基準が異なる。
    同じ成果でも、プロセスを重視する上司もいれば、結果のみを見る上司もいる。従業員は「何をすれば正解なのか」が分からず、最終的には最も無難な行動を選ぶようになる。場合によっては、成果よりも上司の機嫌を損ねないことに意識が向いてしまう。
  • 昇進や昇給の理由が不透明で、推測しかできない。
    昇進が抽選のように感じられ、昇給が運次第に見えると、努力は割に合わないと判断され、より予測可能な環境を求めるようになる。
  • 重要な局面で報酬制度のルールが突然変更され、明確な根拠が示されない。
    企業が制度を調整すること自体は問題ではない。しかし原則や説明が欠けていると、従業員は「将来また変更されるかもしれない」と推測する。

従業員が「予測できない」という結論に至った時、リスクを下げる選択――すなわち退職――を選ぶ。
これは感情の問題ではなく、ガバナンスの質が生み出す行動の結果である。

※補足:制度が人を最も傷つけるのは厳しさではなく、一貫性の欠如である。
 
画像の出典:FREEPIK
 

4. 「幸福な企業」をガバナンスの言葉に引き戻す――重要なのはイベントの多さではなく、制度の安定性

市場では「幸福な企業」という言葉が盛んに使われますが、本来より注目すべきなのは、
その幸福を支えるガバナンス構造が成立しているかどうかです。

幸福な企業のガバナンスの基盤は、「より温かい」ことではなく、「より安定している」ことにあります。なぜなら、成熟した大人にとっての幸福感は、「生活を計画できること」「仕事の先行きが予測できること」「努力に対価が伴うこと」から生まれるのであり、「会社が上手に慰めてくれること」から生まれるわけではないからです。

感情に訴える文化施策だけに依存する企業は、景気後退やコスト圧力に直面した際、簡単に綻びが生じます。一方で、ガバナンス構造が堅固な企業であれば、環境が不安定な局面でも、社員は会社とともに負担を分かち合おうとします。それは、会社が公平に対応し、ルールに従って判断すると信じられるからです。

「安定している」とは、具体的には次の状態を指します。
  • ルールが明確であること(制度として文書化され、説明が一貫している)
  • 意思決定が一貫していること(同様の事案は同様に扱われ、恣意性がない)
  • 約束が履行されること(発言が実行され、実行できない場合は説明がなされる)
  • 例外が説明可能であること(例外は特権ではなく、原則に基づいている)
  • 当事者が自分の扱いを理解できること(透明性が疑念を減らす)

※補足:福利厚生はプラス要因になり得ますが、制度が不安定であれば、それだけで大きなマイナス評価につながります。
 

5. 4つのガバナンス設計によって、信頼を「再現可能」にする

2月というタイミングにおいて、企業が向き合うべき焦点は、短期的な対症療法ではなく、ガバナンス設計そのものです。
昇給、賞与の上積み、引き留め施策といった短期対応は、時間を買うことはできても、信頼を買うことはできません。持続可能な解決策は、あくまでガバナンス設計にあります。
  1. 制度の一貫性
    制度は簡素でも構いませんが、頻繁に変わってはなりません。まず企業が揃えるべきなのは、不信感を生みやすい主要な判断基準です。具体的には、評価ランクの定義、昇給・賞与の根拠、昇進条件、試用期間の合格基準などが挙げられます。経営層が柔軟性を持たせたいのであれば、同時に「柔軟性を適用する原則」と「例外の記録」を整備する必要があります。そうでなければ、柔軟性は容易に恣意性へと変質してしまいます。
  2. 意思決定のトレーサビリティ
    昇給、昇進、賞与の判断を、個人の裁量だけに委ねるべきではありません。少なくとも、最低限の根拠、記録、承認プロセスが必要です。その根拠は複雑である必要はありませんが、経営層が説明でき、社員が理解できるものでなければなりません。例えば、評価結果に対応する賞与レンジ、昇進に必要な能力項目、誰が承認し、いつから効力が生じるのか、といった点です。トレーサビリティの目的は、制度を監査・検証可能にすることであり、社員に「すべては上司の好み次第だ」と感じさせないためにあります。
  3. 検証可能なコミュニケーション
    離職率、重要ポジションのリスク、苦情・相談の傾向、労働安全衛生指標などを、定期的に経営層のレビュー項目として組み込み、ガバナンスのリズムを形成します。コミュニケーションとは、一度きりの全社集会ではなく、一定の頻度で事実を振り返る仕組みです。経営層が人材をデータで語り、判断根拠を説明できるようになったとき、組織文化は徐々に安定し始めます。
  4. 従業員支援プログラム(EAP):ストレスと消耗をガバナンス管理に組み込む
    企業は EAP を「福利厚生のスローガン」ではなく、ガバナンスツールとして位置づけるべきです。EAP の役割は、制度化され、かつ守秘性が担保された支援チャネルを提供することにあります。高い業務負荷、職場での衝突、環境への不適応、あるいは家庭・財務上のストレスが蓄積した際に、社員が実際に利用できる出口を確保することで、問題が最終的に突発的な離職、長期欠勤、申立て、労働安全衛生上の事故へと転化するのを防ぎます。

EAP をガバナンスとして機能させる上で重要なのは、「制度が存在するかどうか」ではなく、「管理可能であるかどうか」です:
  • 守秘性と第三者運営が明確であること――社員が安心して利用でき、管理職も“監視ツール”と誤解しない
  • 明確な連携・紹介フロー――管理職がどのように提案し、人事部がどう支援し、社員がどのように自主的に利用するか
  • 指標は匿名で集計し、管理報告に反映――利用率、相談テーマの傾向、管理職からの紹介件数などを把握し、個人情報には踏み込まない

※補足:信頼は一度のコミュニケーションで生まれるものではなく、制度が繰り返し検証されることで、徐々に積み上がるものです。
 

画像の出典:FREEPIK
 

6. 「労働 × ガバナンス」における会計事務所の役割

2月の転職ラッシュにおいて、会計事務所が真に価値を発揮できる領域は、必ずしも「給与計算」ではなく、次の3点にあります。
  1. 人件費の背後にある構造的リスクを可視化する支援
    多くの企業は給与コストには目を向けますが、人材流動によって生じる隠れたコストには十分に気づいていません。例えば、業務の遅延、やり直し、教育コスト、管理職の時間消耗などです。これらのコストを構造化して示すことで、経営層は「どこに投資すれば最も効果的か」を判断できるようになります。
  2. 制度設計が長期的な内部統制上の欠陥を生んでいないかの評価
    評価制度と報酬ルールの不整合、権限の不明確さ、例外処理が記録されていない運用は、長期的に内部対立や苦情・申立てのリスクを高めます。ガバナンス上の欠陥は、一夜にして顕在化するものではなく、徐々に組織の効率性と信頼を侵食していくものです。
  3. 「人」に関する問題を、経営層が理解できる財務・ガバナンス言語に翻訳する
    経営判断に必要なのは、比較可能で追跡可能な指標やシナリオ分析です。会計事務所は、労働や組織文化の課題を、管理可能なリスクやコストモデルへと転換する支援ができます。これにより、ガバナンスはスローガンではなく、実際に機能するマネジメント行為へと変わっていきます。

企業が労働問題をガバナンスの視点で捉え始めたとき、「人材定着」は短期的な対症療法ではなく、長期戦略となります。EAP もまた「寄り添い」のための仕組みではなく、非計画的な離職や欠勤リスクを低減し、ストレス問題に制度的な出口を与えるガバナンス手段なのです。

※補足:真のガバナンスとは、人を縛ることではなく、制度そのものが信頼に値する状態をつくることです。


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本文の参照基準

  • IFRS/ISSB(IFRS S1、S2:サステナビリティ情報およびリスク開示フレームワーク)
  • GRIスタンダード(雇用、労働安全衛生、多様性および平等に関する基準)
  • ILO(国際労働機関:労働権および労働安全衛生フレームワーク)
  • OECD(コーポレート・ガバナンスおよび人的資本に関する研究)


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